top of page

「沈黙 -サイレンス-」観賞。

  • 執筆者の写真: sooglek
    sooglek
  • 2017年1月23日
  • 読了時間: 5分

巨匠マーティンスコセッシが映画化までに実に28年の歳月をかけたという本作。原作となる遠藤周作の「沈黙」は小学校か中学校の時の課題図書で偶然読んだのを覚えているが、当時は正直よく理解できなかったのを記憶している。昨年この映画化が発表され、改めてこの機会にと思い原作を手にしたが、当時の印象とは全く異なる感想、というか衝撃に近いものを受けた。言葉には尽くしがたい魂を揺さぶられる感覚を覚えた。大学時代曲がりなりにも4年程アメリカで過ごし、必ずしもポジティブなことだけではないが「宗教」や「信仰」について考えさせられる機会を得られたことが少なからず影響を与えた様に思う。

信仰者たちが無残に血を流す中、なぜ神は「沈黙」し続けるのか。司祭ロドリゴの胸に生じるこの疑念が物語を通底するテーマである。この作品が世界20カ国以上で翻訳され時代や場所を超え支持される所には、異なる宗教を奉ずる人達がただ盲目的に神を信じてきた訳ではないのだとういことが窺い知れ、同じ人間なのだと言うことにも改めて気がつかされる。増してや互いへの不寛容が争いを生み続け、混迷を極める現代だからこそ、作品発表から50年以上が経っていようとも映像化されることに意味があり、それこそが監督の意図するメッセージなのだと感じさせられる。

映画は原作に対して徹底的に忠実。というかハリウッド作品でこれほどまで忠実に「日本」を描くことに対して誠意が感じられる作品にはめぐり合えないのではないか、とさえ思わされた。時代考証と一口に括るのは簡単だが、演者の恰好から様々な小道具、過酷さが窺い知れる撮影環境(その過酷さが作品の本質でもあるのだが)、一つ一つのシーンの描写を含め(特に司祭ロドリゴのラストシーン)、スコセッシ監督の原作とこの国の文化・精神性への深い理解と最大限のリスペクトを感じた。

主演のA・ガーフィールド、L・ニーソン、A・ドライバー、浅野忠信、イッセー尾形、窪塚洋介、塚本晋也(監督)、笈田ヨシ、どの役者の演技も素晴らしく今後の賞レースでもぜひ賞賛を獲得して行って欲しい。個人的にはイッセー尾形の抜きんでた存在感と、英語での演技、という意味で浅野忠信は大変印象に残った。浅野さんについては今まで見た日本人俳優の英語のセリフとしては最も量としては多かった様に思う。日本の幕府側とキリスト側である司祭をつなぐ「通辞」という複雑な感情を孕む役どころを見事に演じていたと思う。

ここでパンフよりこの作品を理解する上で参考になると思われる、2つの印象的な言葉を引用する。

スコセッシ監督のこの作品への思いが述べられた原作英語版(2007年)の序文への寄稿。

「キリスト教は信仰に基づいていますが、その歴史を研究して行くと、信仰が栄えるためには、常に大きな困難を伴いながら、何度も繰り返し順応しなければならなかったことが分かります。これはパラドックスであり、信仰と懐疑は著しく対照な上、ひどく痛みを伴うものでもあります。それでも、この2つは関連して起こると思います。一方がもう一方を育てるからです。懐疑は大いなる孤独につながるかもしれないが、本物の信仰、永続的な信仰と共存した場合、最も喜ばしい意味での連帯で終わることが可能です。確信から懐疑へ、孤独へ、そして連帯へというこの困難で逆説的な推移こそ、遠藤がとても良く理解していることです。」

もう一つは原作者遠藤周作が自らこの小説を執筆した理由について。

「明治以後、出版された切支丹研究所にはほとんど一つとして、私の視点 ー つまり強者と弱者の視点からこの時代を分析したものは無かったからである。(中略)もちろん強かった人、殉教者については数多くの伝記や資料が我々の手に残されている。これらの人々の崇高な行為に対して、教会も賛美を惜しまぬからである。だが、弱者 ー 殉教者になれなかった者、おのが肉体の弱さから拷問や死の恐怖に屈服して棄教したものについてはこれら切支丹の文献はほとんど語っていない。(中略)それには考えられる理由が当然ある。棄教者は基督教会にとっては腐った林檎であり、語りたくない存在だからだ。一方、迫害者側の文献にも弱者は無視されている。迫害者である日本幕府にとってもおのが弱さに脱落した転び者はたんに軽蔑の対象に過ぎず、それら無力化した者たちについて書き残す必要はなかったのである。

こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰のなかに埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼らがそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみに対して小説家である私は無関心ではいられなかった。」

あまりにも深い言葉だと思う。個人的な考えとして、「信じること」への究極的な問いへの解釈は人それぞれだと思うが、司祭ロドリゴが最後に出した結論は必ずしも「神」「キリスト教」的な思想に紐づけずとも、自身が信じるものを確固とすれば良いのだとも捉えられると思える。そういう意味でクリスチャンではない自身にもやはり強烈に訴えかけるものがあった。

(公開1週目)

公開館数:約290館

Twitterランキング:圏外

Yahooレビュー:4.2

Filmarksレビュー:4.0

Filmarks見た:1507

Filmarks見たい:14386

youtube予告編視聴数:197622 (12/20UP, 2017/1/21公開)

スコセッシ監督の過去作は「シャッターアイランド」17億、「ヒューゴの不思議な発明」10.5億円、『ウルフ・オブ・ウォールストリート」8億5200万円。昨今の純文学系のアカデミー作品は10億を超えるものが少なくないと思われるが日本人俳優が多数出演すること、今後アカデミー始め賞レースに確実に絡み日本での露出も更に増えると想像すると10億は最低超えるのではないか、というかそうなってほしい。 これだけ素晴らしい映画だからこそ、多くの人に届いて欲しいものだ。


 
 
 

Komentarze


Follow Us
  • Twitter Basic Black
  • Facebook Basic Black
  • Black Google+ Icon
Recent Posts

© 2023 by Glorify. Proudly created with Wix.com

bottom of page